社長コラム

コロナ禍に思う人間の本質

 昨年、2020年のお正月過ぎに、「中国武漢での不明な肺炎」というニュースを、ちらほらと耳にしてはいたものの、近い将来これほどの大惨事になるとは夢も思っていなかった。
 2月には、横浜港に感染者を乗せたクルーズ船が着岸し物騒な空気に包まれ、3月にはオリンピック中止が決定、4月には緊急事態宣言の発令から、現在に至る状況。

 どんな事件でも、物事をどの角度から見るのか、どの立場から見るのかによって、その事件の結果の事実も異なってくる。例えば、今回の東京オリンピックにおいても、同じことが言える。
アスリートから見るオリンピックもあり、政治家から見るオリンピックもあり、僕たち観客から見るオリンピックはそれぞれに思いも違うはずだ。もちろん、それは大きな括りであって、同じ括りの中でも、それぞれの考えは異なって当然だろう。

 オリンピックに出場するアスリートから見れば、生きるためのオリンピックといっても過言ではない。選手生命をかけた、アイデンティティーの存亡にもかかわるものだろう。一方で、政治家から見るオリンピックは、与党・野党またはそのそれぞれの国会議員個々人の思想はあっても、どうしても利害関係からは離れられなくなってくる。僕たち、周囲の感覚からすれば、オリンピック・ファンであれば、開催は歓迎に思う人もいるのだろうし、コロナ禍で日々の生活に窮している状況の立場である人から見れば、どうでもよいイベントにしかならない。
 それぞれの立場から様々な意見が出てくるものだ。

 人はそれぞれに「正義」というものを持っている。
よく子供の頃、正義を武器にしたヒーローが悪の怪獣をやっつけるストーリーのアニメが良く流行ったけれど。時代劇でもそうですか。勧善懲悪。
 しかし、正義の反対には必ずしも悪ではなく、別の正義が存在しているといってもいいのかもしれない。

 この正義というものは、とてつもなく厄介なものだと僕は思う。
正義を武器に、人は主張し、けっして折れることのない強い正義は、下手もすると争いへと発展してゆくのが世の常なのだ。
 ひとつの正義を守るとすれば、別の正義が泣いてしまうこともある。しかし、最終的には社会全体の総和として、幸福が保たれるべきだと、僕は思う。

 スポーツをするにも、スポーツを見るにも、この生命が続いていなければ、実現できないという根本に立ち返って、出来る限り多くの人の生命存続の途を選ぶというのが、賢明のはずだ。

かつてジェレミー・ベンサムは「最大多数の最大幸福」を唱えたけれど、昨今の世の中、社会全体に少しでも多くの幸福がもたらされることはあるのか、さまざまなニュースを観ながら、思うのです。

 価値感の多様化も、それらを認めるという域を越えて、ひとつ踏み外せば、自分勝手な思い上がりの強制にもなりかねない。

 僕たち企業人の日常に立ち返れば、業務にあっても同じことだと思うのです。
自分が良いと思っても、特定のお客様だけに良いことであっても、立ち止まって考えてみるべきだろう。お客様にとっては良いことでも、それだけであれば、良くないことだろうし、会社にとって良いことでも、お客様や社会にとって負が大きすぎるのであれば、やめたほうがいい仕事になる。

 会社はもちろん、お客様、社会全体を含めて総和でポイントが高くないと、良い仕事とは言えないのだろうと考えています。

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